2015年12月27日(日)

 
聖家族 (ルカ2・41-52)


 核家族
 両親は過超祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。

 家庭にまつわる事件が起こる度に、「非の打ちどころのない立派な家庭だと思ったのに」という感想が聞かれます。非の打ちどころがないという表現は、完全無欠で理想的であるという意味に使われていて、だれも疑う者はいません。しかしこの表現の由来は、必ずしも今使われているようなものではなかったらしいのです。

 非の打ちどころの「非」という字は、鳥が羽を広げて飛んでいる姿から来たものです。ですから、ここを打てばこの人は大いに飛躍することができる、飛ぶことができるというのが非の打ちどころの意味ということになります。

 非の打ちどころのない家庭は、確かに表面的には問題がなく、とても立派に見えるのですが、それは仮面をかぶった姿で、実はもはや飛べなくなってしまった家庭のことだったのです。

 聖家族は核家族でした。夫婦、または親二人子一人、最も小さな家族単位です。とすると、現代の家庭状況にそっくりということになります。聖家族のメッセージは、現代の核家族にこそまず届けられるべきものです。

 過ぎた二十世紀は核エネルギーを発見し、核エネルギーに傷ついた世紀でした。同時に人間の核である人格も、ずいぶんと無視され、傷つけられた世紀でした。

 核とは物の最小単位です。物を分けて分けて分けまくつていくと、その物をその物たらしめている核に突き当たります。その核はある条件下で融合すると、とてつもなく大きなエネルギーを持つことが分かったのです。

 人間を分けて分けて分けまくっていくと、最後にその人をその人たらしめている人間の核に突き当たります。これを人格と言います。人間の格もある条件下で融合すると、とてつもなく巨大なエネルギーを生み出すことが分かっています。このエネルギーのことを別名、愛とも呼びます。ですから核家族は、愛のエネルギーに満ちた理想的な家族ということになるはずです。

 ところが現実にはちっとも理想的ではなさそうです。核家族という言葉は、閉塞(へいそく)家族の代名詞みたいに使われます。
   
 どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。原爆を作るための核実験は成功したのですが、人格触れ合いのための格実験はどうやら失敗したらしい。この実験は、21世紀に持ち越しです。
 
 非の打ちどころを求めて、核家族も聖家族と共に神殿詣(もう)でをする必要があります。一人ひとりの人格は、神さまの占領区域です。父の家にこそ、人間本来の居場所があります。

 人格に潜む神の愛のエネルギーを引き出す格実験を、大いに進めたいものです。