2016年1月31日(日)

 
年間第四主日 (ルカ4・21-30)


 ふるさと
  これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。


  「ふるさとの山に向かひて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」(啄木)


  歌人が歌うまでもなく、ふるさとは人間にとって、ほかと比較することができないほど独特の味を持っています。どうのこうのと理屈をこねる必要はありません。良いものは良いのです。ただただ、ありがたいのです。

  ただ、同じ歌人の一首にこんな歌もあります。


「石をもて追はるるごとくふるさとを 出でしかなしみ消ゆる時なし」


  ふるさとの町を追われたイエスのように、石川啄木もまたふるさとを出て行かざるを得なかったらしい。ふるさとは、ただありがたいものではありますが、同時に壊れやすいものでもあるようです。

  かつての文部省唱歌に歌われたように、〝菜の花畠に入り日薄れ 見わたす山の端霞ふかし 春風そよふく空を見れば 夕月かかりてにおい淡し″。「おぼろ月夜」のおぼろの世界は日本人が好む抱擁の世界であり、ふるさとの風景でもあります。

  いろいろな異質のものが混在する景色に霞がたなびいて、淡く柔らかく包んでいく。その中に入り日が消えて、やがて月が上ってくる。その月もまたおぼろに包まれている。抱擁と安らぎが人々を包んで、現代流に言えば、そこにいやし効果が大いに発揮されているということになるのでしょう。
  
  こんな安らぎの世界に何も意義を唱える必要はないでしょう。しかしイエスさまはそれでも、そのふるさとが本物であるために、一つの問いかけをなさるのです。同質の仲間内はともかく、いわゆる「よそ者」 への視点はどうなのかと。

  国際化の流れがとうとうとあふれて、質の違う者が混在しつつある日本は、彼らにとってもふるさとたり得ているのかと。教会もまた、自分とは違う世界の人々にとっても安らぎの場であり得ているのかと。

  異質が異質のまま顔を出したときに、それでもこれを抱擁し、異質のまま安らぎを得て初めてふるさとは、ふるさとたり得ることになるでしょう。啄木のふるさとも、イエスのふるさとも、どうやらこの重要な課題をパスできなかったようです。

  神さまの恵みの特徴は、その果てしなき自在性にあります。包み込む抱擁の手を自分たちだけのものとしてはならないのです。事実、神の恵みはユダヤ社会を大きく超えて、異質の世界であるシリアに、シドン地方に、とうとうと流れ下っています。

  イエスのふるさとの本物への道は、まだ始まったばかりだったのです。