2016年2月28日(日)

 
四旬節第3主日 (ルカ13・1-9)


 人間の実
  「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」


  かつて長崎にイチジクが何より好きな〝老司祭″がいました。一ジクどころか、二ジク、三ジク、四ジクも食べてまだ欲しいと言っていました。信徒であるイチジクを見守って99歳まで生き延びました。

  「這えば立て、立てば歩めの親心」と言われるように、親も司祭も常に子のそばにいて、その成長を見守ります。

  いっそ切り倒してしまいたいといういら立ち、いやいや手入れをしてじっくり待とうと思い返す日々、そのはざまに子育ても宣教もあるのでしょう。〝老イチジク司祭″の思いそのままです。

  さて、イチジクの実はイチジクですが、人間の実は何でしょうか。何をもって実ったと言うのでしょうか。人間の実はもちろん人間です。ですから実った人間を味わうと、人間味があります。その味は、甘いか苦いか酸っぱいか。

  話は突然変わりますが、お茶の種類に玉露というのがあります。このお茶を味わうには、きゅうすの湯を三回替えて三杯頂くのがコツだそうです。一杯目はまろやかな甘味を、二杯目では苦味を味わう。そして三杯目は渋味だそうです。

  この三つの味は、人がその人生において味わう味でもあるようです。人の一生は甘い甘いものであるに越したことはありませんが、現実にはそうはいきません。会社の倒産、事故、災害、果ては人のいわれなき誤解などの苦渋をなめなければならないことも珍しくありません。

  甘味、苦味、嫌というほどなめ尽くして、やがて人生の渋味を味わえるようになったら、そろそろ人生の達人の域に達しつつあると言えるのではないでしょうか。

  甘さは、経済的に裕福であれば何とかなるでしょう。いろいろな苦しみを経験すれば、苦味走った人間の味は出てくると思います。人間の渋味はどこから生まれるのでしょうか。それは玉露を味わうときのように、甘味と苦味の正体を見極めることができるまで、とことん味わってみることではないでしょうか。

  このまっ白の世界を丸く切り取り、祭壇に運ぶと栄光の聖体となります。これをまた元に戻すと、世界そのものと重なります。

    突然の事故で首から下の全機能を永久に失った、あの花の詩人で有名な星野富弘さんは、人生のありったけの苦渋をなめ尽くして、こんな渋い言葉を書き記しています。


 「苦しみによって苦しみから救われ、悲しみの穴をほじくっていたら喜びがわき出てきた。生きているっておもしろいと思う。いいなあ、と思う」 「愛、深き渕より」 と。


 渋味とは、人間が醸し出す神さまの味のことではないでしょうか。

  そう言えば、あの老司祭も何とも味のある司祭でした。