2016年3月27日(日)

 
復活の主日 (日中のミサ)(ヨハネ20・1-9)


 はじめ
  週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。


  聖書の初めに何と書かれてあるかご存じでしょうか。聖書の初めには「初めに」と書かれています。創世記の言葉です。

  ところが新約聖書にもこの「初めに」があるのです。「初めに言(ことば)があった」(ヨハネ1・1)と。

  さて、初めはそれだけではありません。きょうの福音も初めで始まっています。「週の初めに」と。これは、あの天地創造の一週の初めにも通じます。

  きょうの祝日、すなわち復活を味わいたいとお思いでしたら、この三つの「初め」をじっくり黙想するとよいと思います。

  というより、これは私たち人間にとって大言(おおごと)なのです。「大事」という言葉がありますが、これはどちらかというと外側の大事です。それに引き替え、「大言」は人間にとって抜き差しならぬものと言えましょう。なぜならそれは「初め」にかかわる言葉だからです。

  「初めに言があった」と書かれていて、言に葉がありません。葉っぱが芽生える前の大言を表しているのです。

  ここから先は、神秘に満ちたこじつけです。「言」という言葉は、口の上に四つの横棒が重ねられています。口は入口出口、すなわち人間の初めです。つまり人間の初めが四つあって、この初めたちを一つひとつ過ぎ越していくことこそ人間の大言だぞ、と言っているのではないでしょうか。

  最初の初めは、母の胎内からの初めです。この世のいのちの宿りと誕生は、確かに一つの初めです。

  そしてその上の横棒は、生まれた人間が今度は自分を生み落とす時、すなわち自我の目覚めの時でしょう。自分の胎内に閉じこもり、ひよこのように自分の殻を破って新たな自分を生み出すのです。

  そしていよいよ、ひときわ長い横棒の時に立ち至ります。これは若者が「チョームカック」などと言っている、あの「超」の世界との出合いの時です。この世界を超えたものとの出合いへと、人は必ず招かれていくのです。

  超自然、超日常の世界を激しく求めてやまない若者たちに、現代は似てはいてもまったく異なるバーチャル(仮想)の世界しか提示し得ていないのかもしれません。

  さて一番上の横棒はどうしましょうか。三つの初めはすでに通り過ぎてしまったのですが……。それはあなたご自身の横棒です。きょうの週の初めの出来事が、あなたの中に始まるかどうかが問われているのです。マグダラのマリアが訪れた墓は、この世界そのものとも、私たち自身とも言えましょう。

  そこにキリストが息づき始めるかどうか、これこそ復活であり人生の大言です。