2016年4月24日(日)

 
復活節第五主日
 (ヨハネ13・31-33a、34-35)



 わたしが愛したように
  「……あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。……」


  「これまではともかく、これからは『愛しています』とか、『愛さえあれば』とか、とにかく『愛』という言葉を気安く口にしないようにしましょう。これが結婚式に当たっての、ささやかなはなむけの言葉です」。当人たちはこの言葉もまた上の空、愛と称するものに酔っているご様子です。

  そこで、背後に神妙な顔で控えておられるご両親に語りかけることに致しました。「わが子を結婚させる今、ほんの少しご自身のご両親の心が垣間見えておられるのではないでしょうか」と。今度は手ごたえ十分、うんうんとうなずいておられます。

  この広大な宇宙に何兆という星があるとすれば、その星の数ほど愛という言葉で表されるものもあるようです。これも愛、あれも愛です。

  ということは、人間はまだ、愛の〝本家本元″に到達してはいないということでしょう。

  「結婚は、必ずしも愛があるからするというものではないと思います。愛を求めて、愛をはぐくむために人は結婚するのだと思います。どうか今の愛に居座ることなく、二人して果てしなき愛への巡礼に出発してください。お二人のご両親は、その巡礼の途上で、その巡礼のあかしとしてお二人をこの世に生み落とし、この世界という胎内にはらまれたお二人を見守っておられます」

  この辺まで来ると、後ろの席が何となくそわそわと、座り心地が良くないようです。このご両親は決してそうではないのですが、「結婚するというのに、近ごろの子どもは親のことなんか、つめのアカほども考えとらんとですばい、神父さん。神父さんは子どもがおらんから、分からんでっしょばって」

  「親の心子知らず」という言葉があります。これは親の心はあまりにも広く深いものであるので、子どもには分からないものだという意味です。

  ところが現代では、「どうして分かってくれないのか」という愚痴としての意味にとられてしまっているようです。親の心は子には分からないのです。それほど広大無辺なのです。まして、わずか二十年かそこら生きてきた若者に簡単に分かられては、親の心が廃るというものです。

  愛を知るには愛するしかありません。愛の前に謙虚に頭を垂れるしかありません。そのことがすなわち「愛である神」(一ヨハネ4・8)の礼拝行為なのです。

  「一足先に巡礼の旅を行くご両親とここに集まった人生の先輩たち、その尊い道行きにどうぞ続いてください。その途上で、この方々の背後に必ずや『わたしが愛したように……』と言われた、愛の〝本家本元″、すなわち神さまの愛を垣間見ることを許される日が来るでしょう」