2016年6月26日(日)

 
年間第十三主日  (ルカ9・51-62)


 原理主義
  弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて、二人を戒められた。


  現実はそんなに甘いものではない。人間は、いざとなったら自分のことしか考えないんだ。少しばかり人生経験を重ねた人は、こんなことをよく口にします。

  特に現代は、こうした〝現象″が極端なまでに現れ出ていることもあって、この言葉は妙に説得力を帯びてきているようです。

  しかし、あのアウシュビッツ強制収容所の生き地獄を体験した『夜と霧』の著者、Ⅴ・E・フランクル氏によれば、人間の観察として、それはまだ甘いということになります。人間はいざとなれば、ほかの人のために自分を捨てるのです。あの過酷極まりない状況の中で、わずかに支給されるパン切れと水みたいなスープをさえ、惜し気もなく病人に分け与える光景を目にしたうえでの言葉であれば、これはまた妙に説得力を持っています。

  かつて結婚する前は両目で、結婚したら片方の目をつぶって相手を見よ、と諭されたものです。そしてそれは結婚して一緒に住むようになると、嫌でも相手の欠点が目につくから、その前によく観察しておけ、という意味に解釈されてきました。

  しかし本当は、あの片方の目は人間の深層の真相から目をそらすためのものではなく、これをとことん見抜くための目だったのです。第一、片方の目をつぶったぐらいで相手の欠点が見えなくなるなど、それこそ甘いということになります。

  一方の目ををつぶって、ちょうど銃を撃つときのように、狙いをつけてよく見ると、さらに相手の深層の原理が見えてくるというわけです。さて、見えてくるその深層の真相は、怖いものなのか、それとも優しいものなのか。

  世に「原理主義者」と言われる方々がいます。たいていテロ行為に走るなど怖いイメージで見られていることが多いようです。その教えの付随物を取り除いて純粋な原理に達すれば、極めて厳しいものになると言いたいようです。

  教会内にもいわゆる原理主義があります。もっと厳しく、きちんとしたけじめのあるやり方が必要だ。そのためには地獄の脅迫や罪の恐ろしさを強調すべきだ、など。きちんとしたけじめは確かに必要です。しかしそれは、本物の原理に基づいたものでなければなりません。

  本物の原理は、神さまの底知れぬ優しさです。人間においてそうであるように、世の原理主義者たちは、まだまだ神さまの優しさという本物の原理に達してはいないようです。「滅ぼしてしまえ」、「まず父の葬りを」、「まず家族にいとまごいを」など、世の表層の無数の原理主義、人道主義があります。

  しかし、それは本物の原理、すなわち神さまの限りもない優しさに根ざしたものなのかどうか。その検証こそ肝要です。一方の目をつぶって。