2016年7月31日(日)

 
年間第十八主日
  (ルカ12・13ー21)



 人間の勝負どころ
  「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」


  百円より百万円、百万円より百億円持っているほうが良いに決まっています。しかし人間は、そこで勝負しては何の値打ちもありません。

   「東大」や「灯台」の学歴や職歴を持ち、より高い肩書を持っているほうが良いに決まっています。しかし人間の勝負どころは、そこにあるわけではありません。

   この勝負どころを間違えた人間の悲劇が、きょうの福音に鮮やかに描かれています。もっともっと、と富の魔力に取りつかれて、いつしか勝負どころが見えなくなってしまったのでしょう。。

  この悲劇はとても他人事とは思えません。「不景気、フケイキ」と言いながら、私たち日本人も、もっともっとの道に追い立てられているからです。

  現代の〝経済教〟の、あまりにも痛々しい〝殉教者〟の姿を、先日のテレビが特集して見せてくれました。最近の言葉で言うなら、それこそ〝超まじめ〟に働き、単身赴任の寂しさにも耐え、子どもに不自由させないほどの生活費もせっせと稼ぎました。ところが、ようやく定年を迎えてみたら、その翌日、最愛の妻が「長い間お世話になりました」と言って、出て行ってしまったというのです。

   彼には、何が何だかさっぱり分かりません。「おれがどんな悪いことをしたというのか」。そうつぶやいてみても、思い当たることはありません。妻もまた、はっきり言ってはくれません。一年たった今でも、さっぱり理由が分からず、落ち込んでは考え込んでしまいます。きょうも一人寂しく、自分だけの夕食の準備です

  だれが悪くてこんなことになってしまったのでしょうか。彼が悪いのでしょうか。そんなことはありません。とてもまじめで、おとなしく勤勉な方なのです。妻が悪いのでしょうか。そんなことはありません。浮気をするでもなく、子どもの世話もよくする、まじめで勤勉な方なのだというのです。

 みんな良い人たちばかりなのです。それなのにどうしてこんなことになってしまったのでしょうか。
  実はみんな被害者なのです。いつしか〝経済教〟の〝信者〟にさせられ、経済的価値というただ一つの価値のみを拝まされ、本人も家族もバラ色の幸せを夢見て、すべてを捨ててこれを信じ、その教えに殉じてきました。しかし事実は違っていました。それは幻にすぎませんでした。でも、ほかに何ができたというのでしょう

 人間本来の勝負どころを見つけるまで、彼の苦悩は続きます。日本の「カルト宗教」である〝経済教〟からの〝脱会〟は容易ではないようです。

 重ねて言いますが、日本の大部分の人と同じように、彼はとてもまじめで良い人なのです