2016年8月14日(日)

 
年間第二十主日
  (ルカ12・49-53)



 火
  「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることか。……」


 人間はどういうわけか、「ハ行」で笑いを表現します。「ハハハ」「フフフ」「ホホホ」、いずれもこれらの笑いが発せられると、世の中楽しくなります。ただし、「ヒヒヒ」は少し趣を異にしています。少なくともこの笑いが発せられても、世の中が楽しくなることはありません。むしろ〝警戒モード〟が周囲に漂います。

  「ヒヒヒ」の「ヒ」は、きょうの福音に出てくる人間の中の怪しい「火」に関係があるという根拠は何もありません。しかし、この福音の火も、笑いの「ヒ」も、人間に安易な通り過ぎを許さない何事かを投げかけずにはいません。

  この福音の「火」を十分に、「消火」ではなく「消化」しない限り、天下晴れた笑いが人間に訪れることはないとさえ思えてきます。

  「恨めしや」の「四谷怪談」は、ちょうど今の季節にふさわしい物語です。これは人間の中に、〝この世〟〝あの世〟の境を越えてまで、消火も消化もされていない火があることを物語っているものです。これは、恨みの火であり、分裂の火です。

  「お岩さん」に限らず、私たち人間は多少とも、この火を自分の内に秘めています。そしてこの火が災いして、この世界の平和を乱してしまうと考えます。

  確かにそういう面もあります。平和の名の下に、人間はどれほど戦争を繰り返してきたことでしょう。人間にだけ任せていると、平和も正義もみんな自分勝手で独り善がりのものに変えられてしまいます。

  きょうの福音で、平和の与え主(ルカ24・36)であるはずのイエスさまが、「わたしは地上に平和ではなく分裂をもたらすために来た」と言われます。その分裂の火が燃えるように望むと。

  そうなると、あの「お岩さん」の火と同じになってしまいますが、どこが違うのでしょうか。それは火の出所、すなわち火の元が違うのです。イエスさまの火は、人間の一番奥の核、すなわち人格の中に蓄えられています。

  人間が本当に悲しいとき、どんな表情をするかご存じでしょうか。嘆くことを越えて、かすかな笑みさえ顔に浮かべます。人間の実力の範囲にある火を、燃やし尽くしたからなのです。

  そこを通り抜けると、神さまの広場である人間の核に到達します。そこはその人だけの世界であり、神さまとその人だけの水入らずの世界です。

  そこから燃え出る火は、もはや人を焼き尽くす火ではなく、人を温める愛の火です。この火を得るには神さまへの信仰と、かなりの自分自身の『深耕(しんこう)』が必要です。自分を深く耕すのです。

 「ヒヒヒ」と怪しく燃えた火が、みごとに消火され、さらにその奥の平和の火が消化されますように。