2016年8月21日(日)

 
年間第二十一主日
  (ルカ13・22-30)



 狭い戸口
  「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。……」


 天国の〝玄関ドア〟とマイホームの玄関ドアと、構造上どんな違いがあるのでしょうか。ここをよく検証しておかないと、天国行きの道に迷いが生じるということになります。

  きょうの福音によれば、狭い戸口から入るようにと勧められています。皆さんの家の玄関は広々としているでしょうが、どうやら天国の〝玄関〟は、狭い造りになっているようです。

  そうすると、まず太っていると入りにくいということになります。太っていると言っても、まさか〝あの世〟に行ってまで、体の脂肪太りが問題となるわけはありませんから、別の意味の細身が要求されていることになります。

  親しくしていたので間違いないだろうということで、たどり着いてみると「お前たちがどこの者か知らない」という答えが返ってくるという。飲み食いをしたり、お説教を聴いたりしてなじみになるだけでは、天国のご主人にお見知りおきになるとは限らないようです。

  ここでまた、言葉遊びをしてみましょう。「分かる」ということは、同時に「分ける」ことでもあります。天国のご主人に自分を分かってもらうためには、自分を分けなければならないということです。

  ちょうど船が長い航海で、その船底にさまざまなものをくっ付けてしまうように、人間もその人生航路の途上でさまざまなものをくっ付けてしまいます。財産、肩書、プライド、名誉、そして余計なストレスなど。そしてそのようなものに十重二十重(とえはたえ)と取り囲まれ、本来の姿とは似ても似つかない、異様に膨れ上がった姿を自分の本物の姿と主張してやまなくなるのです。

  もちろん〝この世〟を通り抜けるためには、多少の蓄えや肩書も必要でしょう。しかし、〝この世〟でもそうですが、〝あの世〟では特にそういうところで勝負しても、初めから勝負にならないのです。その前に戸口の段階でひっかかってしまうというわけです。これでは天国のご主人に分かってはもらえません。分かってもらうためには、自分を分けることです。

  ちょうど祭壇上のパンを裂いて分け合うように、私たちも自分の遠い人近い人とすべてを分け合うことができれば、天国の狭い戸口も軽く通れる細身を保つことができるに違いありません。

   「核心に迫らぬことで保たれる二人の距離は近くて遠い」。これはある日、NHKが紹介してくれた短歌です。二人とは、人間同士と同時に神さまと私たちでもあります。飲み食い、教えの勉強による知識の蓄えを超えて、互いの核心に分け入ることが、すなわち、天国の狭い戸口の通過と連動しているもののようです。