2016年8月28日(日)

 
年間第二十ニ主日
  (ルカ13・22-30)



 末席
  「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。……だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」


 「招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう」

  聖書のこの個所が、ある日話題となりました。というのも、一人の方が、聖書のこの言葉を信じて、ある会合でまず末席の方に行って座ったのですが、一向に上席に進んでくださいと言われなかったというのです。ゆえに、聖書はうっかり信用ならないと。

  ほかの方々は、この話を聞いて笑い興じたのですが、ご本人は心穏やかではない様子です。私は恐る恐る尋ねてみました。「そこはほんとに末席だったのですか」と。すると彼は、断然末席だったと言い張ります。

  それは末席ではなく、もちろん上席でもなく、一番ふさわしい席だったのではないでしょうか。そこにあなたが座ることによって全体が輝いてくるような、そんなすばらしい席だったと思います。

  そのような思いが、その時浮かんだのですが、ぐっと言葉を飲み込んでしまいました。なぜなら、その方にとってその席は、断然末席だったのだからです。

  そしてその方は、聖書の次の言葉を読まなかったのではないかと考えてしまいました。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と。

  この方に誤算があったとすれば、末席と思われる所に座るには座ったのですが、そこでつい勇み足をしてしまったのです。「自分はもっと上に座るはずの者だ」と。

  日ごろから冷静沈着な彼にしては、とんだミスをしたものです。彼の取るべき作戦は本当は逆だったのです。つまり、さらにもっと末席に着くべきだったのです。明らかに〝末席力〟の不足です。

   話は急に変わりますが、「木」という漢字があります。この字の横棒は地面を表しているのだそうです。

  私たちは「木」というと、枝葉や幹など、地上にある姿を考えてしまいます。しかし「漢字の民」は、地下の姿、すなわち根に関心があったようです。漢字の「木」を見る限り、地上の姿は申し訳程度にほんの少し顔を出しているにすぎません。   

  この低い視点は、すなわち、いのちの視点でもあります。木は根からいのちを吸収します。       
  そしてその視点は、全体への視点でもあります。大地はなみなみといのちをたたえ、地表の異なったさまざまな動植物を生かしています。それはまさしく共同体の典型でもあります。
   十字架の横棒もまた地面を表しているとも言えましょう。すると十字架上のキリストの視点はほぼ地中に位置していることになります。  
  これこそ、いのちの視点であり、これ以上の末席はありません。