2016年8月7日(日)

 
年間第十九主日
  (ルカ12・32-48または同35-40)



 主人の帰り
  「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。……あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」


   こんな拙文でも、ありがたいことに読んでくださる方もいて、たまに感想を寄せてくださいます。

    「普通の人たちは聖書なんか読んではいないのだから、もっとかんで含めるような丁寧な文章を書かないとだめ」。こんなことを言われると、まったくそうだなあ、と思います。いつしか、自分だけ分かっていて、説明すべきところを省いたりします。ここは聖書を読めば分かるだろうなどと、自分で決め込んでしまっていることがあります。

    「私たちには聖書の学問的解釈は必要ありません。もっと生活に密着したことを書かないとだめ」。こんな声を聞くと、まったくそうだなあ、と思ってしまいます。聖書は、書くことから始まったのではなく、体験から芽生えたのですから、現代の体験に置き換えていかないと意味はないことになります。

    「だれがどうしたとか、どうでも良いことをくどくどと書かんでください。紙がもったいない。生活体験はそれぞれみんな違うんです。それを書いていたらきりがない。聖書の基本的解釈を書くだけでいいんです。あとは私たちが生活現場でそれを適用するんですから」。こんな感想を聞くと、まったくそうだなあ、と思ってしまいます。ほかの人の体験まで入り込めるはずはないのですから、抽象的なことしか書けはしないのです。

    「信仰は社会運動でも政治活動でもないんだから、社会がどうの人間がどうのというようなことは書きなさんな。もっと神さまのこと、罪や地獄の苦しみなど、大切なことを書かないとだめ」。こんな忠告を受けると、まったくそうだなあ、と考え込んでしまいます。この世のことだけを書いてもしようがないのです。

    そして何も言われないと、まったくそうだなあ、と思ってしまいます。読んでも読まなくても、そのために世界がどうなるわけでもないのですから。

    ただ、不肖(ふしょう)の身にもかかわらず、みことばに仕えることを志す僕(しもべ)の一人である以上、ともし火と信じるものを、ささやかながら掲げないわけにはいかないのです。あっちにうろうろ、こっちにふらふらしながらも、自分の主張の上に居座ったり、正当化することだけはやめようと思うのです。

    そうなったら、きょうの福音に登場する管理人と同じ穴のムジナです。みことばの管理人は、みことばを私し、〝横領〟するようなことがあってはならないからです。   
    もろもろの感想に、おろおろするのはカッコイイことではないですが、少なくともそうしている間は、眠りに陥ることはありません。眠りさえしなければ、主人たるイエス・キリストの時ならぬ帰りを、見逃すこともなかろうと思うのですが。